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すず虫が生まれました

昨年の夏、孫と初めてセミ取りをしました。
そのためにわざわざ買ったせみ取り網、
セミ、セミとせがまれても鳴かない日が多く
捕りたい日にはセミは捕れません。
網の出番は少なかったです。

それではと郵便局ですず虫を買いました。
買ったその日からきれいな声で鳴いて、
2ヶ月ほど音色を楽しみました。

捕る楽しみはないのですが、
毎日見つめたり話しかけたり聞いたり、
一杯楽しみました。

来年には卵から幼虫が生まれると書いてありましたので、
土が乾かないように水分を絶やさないように、
注意はしていました。

それが今年になって表面にはカビ状のもので
白っぽくなっていましたから、その塊を捨てました。
卵は死んだものと思っていました。

それが予想に反し、寒い冬を耐えていました。
一昨日見ましたらたくさんの幼虫が生まれていました。
気持ちが悪くなるほどうようよしているんです、
あわててなすびをスライスして与えました。

8月ごろには成虫になるようです、
しばらくは幼虫を育てることにします。
こんなにたくさん居てはけんかをしそうです、
2つに分けようかとも思いますが、
どうしたものかと悩んでいます。

8月にはまたすず虫の声で賑やかになるのが、
楽しみです。
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by grand-ant | 2005-05-31 05:31 | 四季

広島の記憶

ご近所で親しくしていただいていた方が、
原爆の犠牲にならずに運よく生き延びておられました。
その頃は西引御堂町で今の西区あたりです、
爆心地のすぐ近くです。
小学4年生の時にこの方のお家へ伺った時の記憶が、
少し残っています。

夏の暑い日でした、お盆の頃だったのでしょう、
盆灯篭が各所にあったような気がします。
この灯篭は各地の夜桜で見かける灯篭に似ています。
六角形の筒になっていて下がすぼんでいます、
側面には赤、緑、黄等の原色の色紙が交互に貼ってあります。
なぜかこの灯篭をよく覚えています。

福岡に越した我が家には
この灯篭に貼る三角形の紙が沢山ありました、
各家で紙を貼って灯篭を作るのかと思いましたが、
そうではなくお寺の仕事(僧侶)をしていたからと分かりました。
この灯篭はお墓に飾るものだったようです。

近くの神社のお祭りでは、
サトウキビの長い茎がたくさん立て掛けられて売られていました?
この時サトウキビを1本買って食べた気がします。

この頃の広島は物騒だったのでしょうか、
お邪魔した家には非常ベルが取り付けてありました、
私は知らずにこのボタンを押したものですから、
外壁のベルがけたたましくなって、
ご近所中を騒がせてしまいました。

家が密集して建っているのではなく、
荒れた空き地が多かったような気がします。
5月5日の日記にも書きましたが、
まだ戦後の匂いが漂った街でした。

中学1年の時、
学校の本棚に岩波写真文庫の本が並んでいました。
この本に載っていた原爆の悲惨な被災者の写真を見たとき、
広島のことをやっと意識したような気がします。
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by grand-ant | 2005-05-30 06:02 | 想い出

3~4歳の記憶

1歳、2歳の頃の記憶のある人はあるでしょうか?
たいていの人は無いと言われます。
私もその部類です。

3歳頃になるとおぼろな記憶があります。
でもそれは4歳のことかもわかりませんし、
確認をすることも出来ません。

おぼろな記憶は、
茶の間と部屋の間は土間で区切られて、
2階には小さな部屋があり、
小さめの座敷机が窓際にあって、
父か母が硬貨を積んで集計?をしていたこと、
裏の狭い庭の周りに高い板塀があったこと。

川では石垣の隙間でカニを捕まえたこと、
遠浅になった水の中を歩いたこと。

手回しの蓄音機の中に誰かが入っていないかと
不思議で覗き込んだこと。

5歳までの記憶であることはまちがいありません、
それはこの家に住んだのは5歳までですから。

昭和19年12月この家から福岡へ引越し、
翌20年8月この家は原子爆弾で無くなってしまいした、
半年はあいていますが間一髪で命拾いをしました。
原爆記念日には思い出して、
運のよい人生ではないかと思います。
引越しがなければ私は今居ない筈です。

時々人にくじ運のいいほうですかと聞かれます、
いやー宝くじも当たらないので、
くじ運は悪いですとは言ってます。
大した病気にもなりません、
致命的な事故にも遭いません、
ラッキーな運を持っているような気がします。

広島に生まれながら、
5歳に満たない時までしか居ませんから、
その記憶はほとんどありません。
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by grand-ant | 2005-05-29 07:06 | 想い出

風車の丘、その2

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花の知識のない私は、
あっ、きれいなポピーだと思ったら、
ヒナゲシの表示がありました。

ポピーはヒナゲシの一種で、
同じ種だそうです。

種類も沢山あり、
花びら、花弁が少しずつ違います。
風車の丘のヒナゲシは、
花壇全体が赤っぽく見える中に、
オレンジにピンクに白色も混じって、
きれいに彩られていました。

去年はルリカラクサ、ツマジロヒナギクが
広い花壇を占めていました、
今年は様変わりです。

ヒナゲシの隣は去年と同じ赤のサルビア、
もうだいぶ咲きかけています。

それと2月頃には咲いていたと思われる
水仙の花壇はしなびれた葉が倒れて
次の手入れをまっています。
今度は何が植えられるのだろう・・

風車の丘の横にバラ園があります、
丁度見頃か、見頃をやや過ぎた感じの
バラが沢山咲いていて、
黒バラなどきれいな花もありました。

一通り見終わって、
すぐ上にある鶴見新山へ登り?
遠くを眺めて見ると生駒連山がくっきり、
空気は澄みきっていました。
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by grand-ant | 2005-05-28 05:32 | 四季

風車の丘

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二日続けて鶴見緑地に行きました。
一日目の空は真っ青、
二日目はやや霞の掛かった薄青、
陽射しは両日とも強く紫外線を気にしながら、
一まわり黒っぽく焼けました。

昨年の9月以来でした。
花壇はひなげしの花がきれいに咲いて、
多くの人で賑わっていました。
昨日はそれは大勢の幼稚園児の遠足と出会い、
しばらく様子を眺めていましたら、
その人数は1500人と聞いて驚きました。

「園児数の多さは日本一です」と、
先生が言っておられました。
入り口前の信号を全員が渡り切るまでに、
1時間も掛かったそうです。

クラスの数をお聞きしたら58クラスもあるようで、
1500人でしたらそれぐらいにもなるんですね、
途切れることなく現れては消える園児に圧倒されました。

風車をバックにクラスごとの記念撮影も時間が掛かって、
暑い日差しの中、園児もくたびれた様子で、
撮影だけでも先生は大変そうでした。

人とであったら挨拶をするように言われているのでしょう、
「おはようございます!」と言われると、
私も大きな声で「おはようございます!」と
返事を返していましたら、
途切れることなく続きますので私もくたびれました、
場所をかえて返事から解放させてもらいました。
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by grand-ant | 2005-05-27 06:17 | アウトドア

田園風景の記憶

山陰本線の車中から眺める景色は、
山と畑ばかり、大きな駅の周りでもビルはありません。
平野の広がるところでは田んぼと畑が続き、
幾何学的な地模様がきれいでした。

所々に農作業小屋があって、
お百姓さんが忙しそうに働いておられました。
季節によっては一面のレンゲソウの花がきれいだったり、
田んぼに張られた水が鏡のように見えたり、
緑と黄色のまだら模様の草原に見えたり、
日本らしい風景に見えていました。

各農家には牛が飼われていました、
田を耕す頃には牛が一斉に活躍している姿は、
普通の景色でした。

水田のあちらでもこちらでも、
何頭もの牛がスキを引っ張っていました、
クワを手にして耕している人達や、
多くの人が一列に並んで苗を植えていたり、
田園風景が思い出されます。

現代のような複雑な社会でもなく、
車窓からそんな景色を見ていると、
見る人の心にもゆったりとした時間が流れ、
いい時代ではなかったかなと思います。

食べる物や着る物には困る時代でした、
青春の希望を抱いてみんな都会へと出て行きました。
お金は無くても気持ちは豊かでした。

先日大鵬親方がテレビの中で言ってました、
「今の人は恵まれすぎて意欲を失くしている」と
強い日本人横綱がいない事に嘆いておられました。

「衣食足りて礼節を知る」とは言いますが、
今の日本は衣食もお金も足り過ぎて
礼節も意欲も置き忘れています。

田園風景を思い出して考えてしまいました
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by grand-ant | 2005-05-26 06:48 | ニュース・評論

出発の日の記憶

島根から京都へ出る日は、
石見太田(いわみおおだ)駅まで母が送ってくれて、
後は夜行列車の一人旅でした。

それまで通学に履いていた布製のズックに替えて、
駅前で革靴を買い初めて履きました。
えらく先のとがった年寄りくさい靴で、
2ヶ月ぐらいで嫌になって次の靴に履き替えました。

列車を待っているホームで、
以前に会ったことのある人に偶然出会いました。

この人、国鉄バスの車掌さんです、
私の家の向かい側の家の廊下を借りて、
交通量の統計を取っておられて顔見知りでした。

中学生の夏休みか春休みかどちらかです、
道を挟んだ家で習字の宿題をしていましたら、
その人が近づいてきて、「上手だなー」と言って、
私の習字をあれこれと批評してくれました。

窓のない家ですから、
障子を開けて書いていましたら外から丸見えです。

自分も習字をしているから筆は沢山ある、
「こんど一揃い持ってきてあげるよ!」と言われて、
私は本気になって心待ちにしていました。

或る時車掌をされているバスにも乗り合わせ、
「筆を持っていってあげるからね!」
しっかり勉強しなさいと言われたような気がします、
その後も、言われたことは実現しませんでした。

待ち合わせのホームで、
筆のことは覚えておられてばつが悪そうでした。
京都に就職についてもちろん励まされました、
何かの折に思い出す事柄です。
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by grand-ant | 2005-05-25 05:23 | 想い出

夜汽車の記憶

島根から京都に出てくるには、
夜行列車で12時間ぐらい掛かっていたと思います。
ちょっとそこまでとはいかないので、
一日がかりの一仕事でした。

小学校も中学校も修学旅行は京都、奈良、大阪でした、
名古屋へは遊びに、京都へは面接に、
その度に山陰本線経由の夜行列車に乗りました。

行きも帰りも夜行です、
京都に就職が決まって出てくるときは、
もう夜行列車慣れしていました。
停車駅の駅弁の売り子さんの声とか、汽笛とか、
SLの夜汽車には風情がありました。
そろそろSLが引退を始めたころでしょう、
電気機関車のときもありました。

その頃の列車の窓は両端のフックを
両手で持ち上げてあけていました。
体を突き出すようにしてお茶などを買っていました。
今の列車は窓が開かないようになっています、
窓を開けたり閉めたり、旅行気分をかきたててくれました、
今思えば当時の方がのどかでよかったです。

途中の停車駅の米子、鳥取、城崎、福知山、和田山などなど、
いつか記憶してしまい、夜の駅の様子は今も浮かびます。
日本で一番高い餘部鉄橋を通る時は、
起きていれば下を覗き込んで感慨にふけったものです。

強風で鉄橋から列車が落ちる悲しい事故もありました、
この事故も人事とは思えませんでした。

綾部を過ぎて園部あたりから夜があけはじめ、
亀岡を過ぎると朝になっています、
花園とか丹波口はよく覚えている駅名です。

頭の中で夜汽車に乗っているような気分になってきました。
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by grand-ant | 2005-05-24 09:53 | 想い出

焼き飯の楽しみ

アパートを借りたまま、
先輩の下宿に泊り込むようになりました。
同じ会社でも帰りは別々です、
不思議なことに、
その下宿のあった住所が今は思い出せません。
一週間ぐらいも寝泊りしましたのに・・

覚えているのはなんとなく繁華街の真ん中のような、
部屋はいつも雨戸が閉まっていて薄暗く、
お借りしたお家の方とも顔を合わしたこともなく、
そーっと帰ってきて、そーっと出ていました。
記憶にないということは興味が別にあったのか?

朝食はどこで取っていたのかこれも記憶にないですね。
下宿の先輩と一緒に取っていたはずです・・

夕食は覚えています、
この頃は探検心があって毎日違う店を探して、
美味しい所はないかと食べ歩いていました。
私は混ぜご飯が好きで焼き飯を毎日食べました。

焼き飯でもいろんなものがありました、
極々庶民的な小さなお店ばかりを見つけて、
ねだんも安い(200円前後?)ものを注文しました。

グリーンピースの多いもの、
紅ショウガの赤い色が目立ったもの、
黄色い錦糸卵が豪華に掛けてあったもの、
緑色のきざみ葱がたっぷりのもの、
牛肉の多めに入ったもの、
ピンク色の小海老がいっぱい入ったもの、
中華風だったり、スープが付いていたり、

「○○軒」「洋食」「軽食」こんな感じの店ばかり。
暖簾のきれいなところは美味しかったです。

その後はうどんが好きになりました、
うどん定食には炊き込みご飯が付いています。
炊き込みご飯も大好きです。
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by grand-ant | 2005-05-23 07:37 | 想い出

良家の若息子でした

放火事件でわき道にそれました、
また京都の時代に戻ります。

入社してしばらくすると
私のことを「ぼん」と呼ぶ人が出てきました、
時には「ボンさん」とも言われたり、
「ぼんぼん」とも言われました、

ぼんさんはさんが付いているから
丁寧には聞こえますが若ぞうとも聞こえました、
ぼんぼんは幼く見られているようで、
どちらもうれしくは思えませんでした。

「ぼんさん」はないだろう!と
かばってくれる先輩も居ました、
私は晩生で幼顔だったものですから、
良家の若息子に見えるのならまあいいかと思ったり、
世間知らずの若ぞうには違いなかったです。

同じ課の先輩がいつも「ぼん!」「おい、ぼん!」と
仕事をいいつけたり、聞いたりしていました。
その言い方というかニュアンスというか、
「おい、このやろう!」とは聞こえないで、
どこかほっこりできる言い方でした。
関西弁のいいとこです。

私はいつも若く見られます、
30代の時は20代に、50代の時は30代に、
そして今60代になっても50代に見えるそうです?

若い時には年配に見えて欲しかったものです、
今は若く見えるのであればうれしいことです。

大阪の知り合いの方は
自分の息子の名前の頭文字にぼんを付けて、
「○ーぼん」「□ーぼん」と呼んでいました、
小さい子供ではなくもう30過ぎのおっさんにですよ。

所変われば言葉も変わります、
島根に居ては聞けない言葉でした。
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by grand-ant | 2005-05-22 04:50 | 想い出