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昔、母の実家の先代は旅館ををしていた 祖母はそのごろのことを時々話して聞かせてくれた 定宿にしていた富山から来ていた薬屋さん 柳行李(やなぎ ごうり)を背中に背負って一日売り歩いて 夕食の後 引き取ってきた古い薬を袋から出して 薬用のすり鉢に入れて 新しい薬と一緒にしてすり潰し 新しい袋に入れなおして 翌日また売りに行っていた 鼻くそも丸めれば 萬金丹 などと言いながら 祖母はそんな話を面白く聞かせてくれた ○○丸、○○丹、○○助丸、どんな薬だったのだろう 消費期限の来た薬を もう一度売る 明治時代にも、江戸時代にもあったことだ 今世間をにぎわしている偽装の数々 現代に始まったことではない 消費者にはわからなければと いろんなだましの手口であざむかれてきた 雪印、不二家、白い恋人、比内鶏、日本ライス、赤福、吉兆 挙げてゆけば切がない 薬のように細かく切って混ぜてしまうものは特に信用できない ミンチ肉、ハンバーグなどがそうだ 加工食品でもブロイラーを地鶏と偽っても味ではわからない 日本では相当数のウサギの肉が流通にのっているらしい 店ではウサギの肉と表示したものは見たことがない どうなっているのか知りたい 鶏肉として出回っていたりはしないだろうか # by grand-ant | 2007-11-10 21:06
会社の帰りに先輩から"お茶でも" そう言って誘われて入ったのが"純喫茶"だった 田舎から出てきた僕にとって 都会的な店の雰囲気は心地よかった お酒も、食事も扱わない店 それが"純喫茶"だ のちには、軽いお酒、軽い食事もできる "純喫茶"もあったような気がする ジャズなどの軽音楽が流れて タバコの煙が漂っていた やや薄暗い照明は大人の雰囲気もあった 素敵な彼女ができたら 一緒に来たい と思った その後 何度か入った"純喫茶" その度に 先輩と入った店を思い出していた この時代は"純喫茶"と名乗った店は 街のあちこちにあったのに ふと気づいたら 今は"純喫茶"なる喫茶店は 探しても見当たらなくなった お酒を扱う"洋酒喫茶"も "音楽喫茶" も "ジャズ喫茶" も "純喫茶"と共に消えて行った ![]() # by grand-ant | 2007-07-14 10:25
生まれてから今日まで
何人の人に会ったのだろう 仕事を融通してくださった人 心を開いて語り合った人 悩みを聞いてもらった人 悩みを聞いてあげた人 苦しい時に助けてくださった人 ただ顔を合わせただけの人 道ですれ違っただけの人 いつまでも心に残っている人 もう会いたくない人 いろんな人と出会った そして ネットでもたくさんの人と出会った あなたとも・・ ![]() # by grand-ant | 2007-04-12 22:03
夕立の後にはたまに虹に出合う事がある
きれいな虹を見ると とっても得をしたようなきもちになり 幸せな気分になる 虹の立ち上がっている根元には 宝物が埋まっていると聞いて 探しに行ったことがあるが 場所を特定することは出来なかった この辺りから虹ができていたと思っても そこでは虹が消えている 虹の下に行っても虹は見えない 見る場所によって その位置は少しずつ違っている 幻覚を見ているのではと錯覚もしそうだ 虹はなぜ虫偏なのかネットで調べてみた 昔 中国の人は龍が天に昇る姿だと思っていて それから虫偏になったそうだ この不思議な現象は、 大自然からの素敵な贈り物 夕立の後の爽やかさに加え 希望の光にも感じるすばらしいものである 日の良く当たる時に水撒きをしていると ホースから出る水が霧状になり小さな虹が現れる 七色の虹とは言うが どんなに見ても5色ぐらいにしか見えない 色の見え方も不思議だ
今日は映画ではなく楽団です、
「映画と実演」とも書かれてますから、 映画との2本立てです。 スターの「沖諒太郎」記憶にありません、 「筑紫まり」もメジャーな名前ではありませんね。 「美空ひはり」来る! の看板を見たことがあります、 有名歌手と一文字変えた名前ですけど、 案外お客さんが入るんだそうで賑わってたということです。 京都加茂川楽団はどんな楽団だったのでしょう? その後は聞かない楽団名です。
今日のチラシは洋画です
同じく昭和32年~34年のものです。 映画の「再会」のヒットの後、 松尾和子の歌謡曲の「再会」も大ヒットで、 日本の各地に「再会」という喫茶店ができました、 大阪梅田にも、京都四条にもありました。 ミナミにも阿倍野にも在ったと思います、 「追憶」の喫茶店も見た記憶があります。 昨年でしたね韓流ブームの中、 April Snow -再会- が再登場しました。 「避暑地の出来事」の主題曲は「夏の日の恋」 ロマンチックなメロディーで私の好きな一曲です。 あの、城達也の「ジェット ストリーム」にも 「ミスターロンリー」とともに登場しました。 再会、めぐり逢い、抵抗(レジスタンス)、菩提樹 ![]() 追憶、白鯨、昼下がりの情事、ながれ者 ![]() O.K牧場の決斗、ロンリーマン、 ![]() 避暑地の出来事、早撃ち拳銃王 ![]() このチラシは江津の新聞に入っていたのですが、 「中央会館」も「文化大劇」も九州は小倉の映画館です。 島根の客も呼び込んでいたみたいです。 前回のチラシⅡの「銀映映劇」も「宝塚会館」も小倉です。
今日はチラシだけ見てください。
昭和32年~34年のものです。 隠し砦の三悪人、大阪の風邪、紅蝙蝠、毒蛇のお蘭 ![]() 悪魔と天使の季節、花嫁の抵抗 ![]() 重役の椅子、恋は異なもの味なもの、お父さんはお人好し
手紙を書いて封書で送ること、
いつ頃からですか しなくなりました。 もう手紙を送る必要性も相手もいませんけど・・ 高校時代はよく手紙を書いていました、 家宛であったり、祖父宛であったり、 従弟にも、妹にも良く書いていました。 福岡で過ごした竹馬の友へも、 中学時代はペンフレンドへも何度か・・ 書いては破り、清書といっては書き直し、 便箋の1/3はそんな風にゴミ箱に入りました。 その頃に使った便箋の表紙、 捨てずに大事にとっています。 チラシ集めの前からのコレクションで、 いつの間にか集まった物です。 便箋の表紙もデザインに凝った物があり、 新しく買うときは迷いながらも楽しく選びました。 風景をスケッチしたもの、 草花をあしらったものなどを好んで選んでました。 表紙の端に価格のスタンプがあります、 25円~30円です。 ![]() ![]()
新しい寄宿舎では起床は早かったです、
朝の新聞の折り込みチラシを集めるためです。 誰よりも早く起きるようにして、 なんでもないチラシを集めました。 朝は6時ごろだったでしょうか、 2~3枚とか4~5枚とか少ししか入っていませんでした。 私が集めていることを知った、 1級下のK君もいつの間にか集めだし、 2人で競争のように取り合いました。 収集癖の始まりですね、 夢中になって集めだしたのは初めてのことです。 以前紹介した映画のチラシの他に、 飲食店の開店のチラシ、バーゲンの知らせ、 商品の案内など手当たり次第に集めました。 今見ると時代の反映です、 どのチラシも粗末な紙です、 当時のちり紙のような、ザラ半紙のような、 薄い紙です、少しの力で破れてしまいそうです。 最近のチラシはアート紙にフルカラー印刷で、 捨てるのももったいないような出来栄えですけど、 当時は1色刷りが大勢でした。 豪華さを少しでもとカラー紙が使われていました。 そんな1枚です。 目についた優れもの?"コピー"です。 ・中海産極上うなぎ ・味は天下一品 ・キュッと一ぱい如何です ・そば粉は有名な三瓶そば ・高血圧降下剤 ・冷やしビール ・電話呼出156番です ![]()
昨年の6月19日にコーヒーを書きました、
あれ以来忘れていたコーヒーにひょっこり出会いました。 高2の時 友達のアルバイト先にお邪魔した時です、 コーヒー皿にコーヒーカップ、スプーンに角砂糖2つ、 コーヒーに小さなミルクポット、 これがコーヒーですと言うようなセットで頂きました。 多分これがコーヒーを頂いた初めてのことになるかも分かりません。 とても苦かったです。 以前に我が家で飲んだコーヒーは 香りのいい甘いコーヒーでした、 このときは番茶用の湯呑み茶碗だったように思います。 高級料理も器で味が変わるように、 コーヒーも本格的な器で頂くと苦くても当たり前、 これがコーヒーなんだなと思ったものです。 数日してその友達と駅前通りのお店でコーヒーを注文しました、 意外にもコーヒーが出てきました。 コーヒーと言うものがこの街に存在していたのだという、 驚きの方が大きかったです。 それから1年後、就職面談で京都に出てきて、 京都駅のステーションデパートの喫茶店で頂いたコーヒーは、 これまた苦くて、砂糖を一杯入れて飲みました。 以来本当に美味しいなぁーと思えるコーヒーに出会うことは、 本当に少ないです。 最近は角砂糖にもお目見えしなくなりました。
クラブはラジオ部と美術部に入りました、
入ったと言うだけでどちらもほとんど活動していません。 美術部の方が少しは活動しました、 彫塑も少し、デッサンも少し、 近くの普通科の高校へ写生にも行きました。 クラブらしい熱心な活動をしていたのは、 私が入っていない柔道部に野球部です。 スポーツマンらしくていいなとは思いましたが、 思うだけでした。 柔道で黒帯の人は尊敬の目で見ていました、 寄宿舎の友達も2年生の中頃には黒帯になっていました。 野球部は他のクラブに比べると、 特別待遇のような印象がありました。 対外試合で授業を休んでも公休扱い、 体調管理のための栄養剤も支給してもらってました。 1年生の時に風呂に行く頃の遅い時間まで、 練習の曲が聞こえていた吹奏楽部も熱心でした。 楽器を演奏することはすてきなことです、 ハーモニカぐらいしか吹けません、 私に能力があれば入りたいクラブでした。 私の卒業後に強くなったのはボート部です、 全国優勝を2度したようでした。 まだ空手部も水泳部も自動車部もあったような 気がしますが、はっきりとは覚えていません。
新寄宿舎の裏の桑畑の向こうは、
道を挟んですぐに松林がありました、 そして、その向こうは砂浜です。 すぐそこに海水浴場があるようなものですから、 9月になっても泳ぐ者がいました。 朝早く起きて寮の周りを歩いている時に、 浜辺の方から鐘の音が聞こえてきました、 何の鐘だろうと近寄ってみましたら、 地元の漁師さんが手に持った鐘を、 振る様にして鳴らして浜辺を歩いておられました。 地引網の引き手を集める呼び込みの鐘でした。 寄宿舎からも何度か何人かが参加して、 地引網を引きました。 前もって漁師さんが沖の方に仕掛けた網を、 4~50人で引きました。 いろんな魚が入っていました、 さば、いわし、いか、たいなどポピュラーな魚が、 うみへび?と思うような気持ちの悪いものも、 あなごでしょうか、うつぼでしょうか? 恐々と見ていました。 引き終わった後は、 引いた人に2~3匹ずつの魚を分けてもらえます。 (これを当たり前と言うんだそうですよ) 私たちが貰ってもどうしようもないんですが、 寮母のおばさんに持って帰ってあげていました。 食事に使われたのかどうか気に掛けることもなかったです。 地引網を引く経験もしました。 この頃は参加者がお金を出し合って、 地引網を経験するイベントもあるようです。 今はこんな方法が"当たり前に"なっているんですね!
新しく寄宿舎が出来て、
旧寄宿舎に居たものはすぐ引っ越して来ました。 引越しと言ってもふとん袋1つと本ぐらいのものです、 大きなものはありません。 トラック1台で24人分を積み込めたのか、 荷物と一緒に体も運んでもらったのか、 トラックで2回ぐらい運んでもらったのか・・ この辺の記憶はほとんどなくなっています。 鮮明に記憶していることは、 下宿から変わって来る者がリヤカーでやって来たことです。 今はリヤカーなんて珍しいものですが、 あの頃は普通のことで、2~3kmの道のりを、 人の手で引っ張っていました。 2学期が始まってもしばらくそんな引越しが続いていました。 どこかで借りたリヤカーに全財産を積んで、 てくてくと引っ張っていました。 リヤカーなんて知る人ぞ知る代物になってしまいました、 これに使っている車輪は自転車と同じで、 だいはちぐるま(大八車)に比べると軽快でした。 リヤカーという言葉は英語ではないですから、 多分当時の新語だったと思います。 自転車の後ろにつけるからリヤカーなんでしょう。 リヤーカーに対する言葉はサイドカーです、 これはオートバイ用の側車です。 サイドカーを付けた白バイは格好のいいもので、 乗って見たいと憬れたものです。 自転車用の側車もありました、 勤めていた会社で時々使っていました。 リヤカーは自転車で引っ張らずに、 人の手で引っ張ることが普通のようになっていました。 まだ時折、見かけることがあります。 用事の済んだリヤカーはまた返しに行かなくてはなりません、 リヤカーでの引越し、今ではとても考え難いことです。 宅急便もあれば引越し屋さんもありますから、 これはほんとうに隔世の感があります。 ![]() 反対側の表の方も桑畑が続いています、 桑畑の中を横切っているのは山陰本線の線路です。 写真は見えにくいですが、 中央部で盛り上がっているように見えるのがそうです。 これだけの桑畑、養蚕が盛んだったころです、 もう今は別のものが植えられていることでしょう。 山陰本線は単線です、 左側から右側へ列車が通過してしばらくすると、 今度は右側から左側への列車が通ります。 右側方面が下関へ、左側は松江へ行く方向です。 寄宿舎の窓から毎日眺めていました。 夜の夜行列車の窓あかりも良く見えました。 まだSLが活躍している頃です、 機関車が後ろに1台、前に2台の重連で引っ張ることも度々見ました、 長い貨物列車も車両の数を数えたりしました。 窓からそんな様子が見えていましたが、 逆に列車からは寄宿舎が見えているということだから、 ふとんなど醜いものは窓から乾さないように言われてました。 都会地のマンションでは、 ベランダからふとんを乾しているのを良く見ます。 後日、それほど気遣うことも無かったのにと・・ 寄宿舎の窓から撮ったものです。
狭い24人ほどの寄宿舎生活は
2年生の夏に新しい大きな寄宿舎が完成し、 1学期の終わりに引越ししました。 1部屋6~8人で造り付けの2段ベットのような、 準個室があてがわれました。 ふとんは自分でしいて、自分であげます。 新しい寄宿舎は寮生が60人ぐらいに一気に増え、 寮母さんも2人、舎監の先生も泊まり込みになって、 2人が担当されました。 お一人は家族で住まわれ、 小学生のお子さんが2人おられ、賑やかな子供の声と共に ご家族の生活ぶりが垣間見えました。 もうお一人は独身の若い碁の好きな先生でした。 10人ぐらいも入れる大きなお風呂、 20畳もあるような広い炊事場、 水汲みもしなくていいように 井戸には電気ポンプが付いていました。 トイレも数が増え、 忙しい朝も待つことなく使えました。 洗濯場もコンクリート製の流しが付き、 立って洗えるようになりました。 寄宿舎は海岸の砂浜にすごく近い、 広い桑畑の中に出来ました。 「桑逢寮」と名前が付きました。 古い寄宿舎から思えば文化大革命?でした。 しかし、十数年後に火災で消え、 間もなく再建された寄宿舎もまた同じ運命に遭い、 悲しいことが続きました。 ![]() ![]()
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